五章 ブレイクランアウト 第92話 ナインボール
「あの姉ちゃん、敵地に乗り込んでくるって、よーやりよるわ。ちょっと応援してみようかな」
世話焼きの石黒はなんとなく弱い者や味方の少ない者を応援してしまう性分だ。ウッシーこと牛島は日頃の付き合いもあり、佐倉を応援する。
「やっぱ、佐倉さんが圧倒的な強さ、見せてくれると信じてるけどなあ、ボクは。最近、頑張ってるトコ見てるモン!」
「そうね、南ちゃんには勝って欲しいわね。あの子には悪いけどさ」
お嬢を含めた3人は固まって応援していた。
「どうだい? 近頃は老練な連中に囲まれてやってるらしいじゃない…」
大家はマスターに訊ねた。
「まあ、よくやってると思うよ。普段通りの力が出せりゃ、それなりに結果はついてくると思うんやけどね…」
ナインボール5セット先取の試合は、佐倉のブレイクショットでスタートした。佐倉のブレイクはそれほど強くない。いくつかのトラブルが生じることがあり、もつれた展開で強さを発揮することもある。
いつもの慣れたコンディション。大勢のギャラリーに囲まれながらも佐倉は集中力を発揮していた。堀川ビリヤードの常連たちは、彼女のナイスショットをする度に拍手や声援を送った。
対して葵のショットのときにはブーイングこそ起こらないが、拍手も無かった。拍手する場面が無かったこともある。葵の放ったショットはわずかにポケットに嫌われ、佐倉にチャンスを与えている。
「ずいぶん上手くなったわね」
お嬢は久しぶりに見た佐倉のショットをこのように評価した。石黒も牛島もそれに頷いた。
このことを証明するかのように、佐倉はセット数を重ねてリードを広げていく。
葵に同行している六道はずっと腕を組んで沈黙していた。そんな彼にに声をかける者が現れたのである。
「妹の様子はどうですか?」
六道が後ろを振り返ると、そこには葵の兄、酒井正人の姿があった。正人は目を合わすと深くお辞儀をした。
「ああ、なんだかんだで相手の3連取、0対3にされたところだ」
「試合が終わる前に来ることができてよかった。そうですか、引き離されてますか…」
「今のところは、な…」
その意味深な言葉に引かれて、兄は妹の方を見るが、ポーカーフェイスのために心を読むことはできない。スコアを言われなければどちらがリードしているのかさえわからないほどの無表情ぶりだ。
”葵の異変”に気付いているものは確かに存在した。ゲームを間近で観戦していた石黒もその一人だ。
「うーむ…」
「どうかしましたか?」牛島が石黒に尋ねた。
「いや、きっと気のせいだろう。そんな筈はないもんな…」
牛島にはなんのことかさっぱり理解できなかった。
「どうも腑に落ちないね…」大家が言うと、カウンターに座っていた重鎮たちもそれに同調する。
「あの葵ってお嬢ちゃん、さっきからただの一球も入れてないな…」
「フォームもストロークもあれだけ安定してきれいなところを見ると…」
「やっぱり、ワザと外しとるんかね…」
「ああ、あれは入れようとしているんじゃなかろう。何の理由かは知らんがね…」
こうしている間にもゲームは進み、4セット目の9番ボール前にピタリと手球を運んだのは佐倉だった。リーチとすべきこのナインボールに完璧なポジションをしたことで周囲からも拍手がわき起こった。
一瞬の気の緩みがあっただろうか、少なくとも佐倉はそんなつもりはなかったし、普段通りにきちんと狙ったつもりだった。しかし佐倉がショットしたナインボールはわずかに逸れてポケットから外れる。
「ああーー…」というため息が場内にこぼれた。
椅子に座って待機していた葵は、すれ違いざまに佐倉の目をキッと睨んだように思えた。
(ここで決めておけばよかったのに・・・)
そう、心の中の声が伝わったかのようだった。
決して簡単な配置ではなかったが、葵はナインボールの厚みをしっかりと確認し、これまでと同じようなしっかりとしたストロークでナインボールをポケットのど真ん中に沈めた。
佐倉は4対0とすべきセットを落とし、3対1としてしまう。
しかしまだ大きなリードを保っていることから、佐倉は落胆などしていなかった。
(もうナインボールは外さない!)
そう心に誓った。
セルフラックシステムにより、次にブレイクする葵がラックを組む。
「なんか、もの凄く嫌な予感がするわ…」
石黒はお嬢と牛島にそう言った。
ラックを組み終わって、葵は”BAZOOKA”と書かれたど派手なブレイクキューを素早くしごく。
「ドカン!」
狙いを定めて放たれた手球は1番ボールに正確にヒットし、カラーボールを勢いよく散らした。
Race to Elevenの過去の記事は こちら をご覧ください。
- 2013年6月13日(木) 02:38 by 芦木 均