五章 ブレイクランアウト 第93話 葵の逆襲
ウェイティングシートに腰掛けていた佐倉はさっきのミスを引きずって俯いていた。が、葵の強烈なブレイクの音にハッと呼び起こされたのだった。
キン!という金属にも近い、樹脂タップの音がしたかと思うと、華奢な体からは想像できないような強烈なブレイクが繰り広げられる。自分のブレイクと比べても桁違いによく割れている。
道具の違いはあるだろうが、それにしても違いすぎる。
葵のショットはある意味”潔かった”と言える。
狙える配置であればキッチリと狙いポジションもするが、そうでなければセーフティをして相手に狙いにくくさせる。葵にはまだまだきっちり隠すほどのコントロールは無かったが、難しいバンクショットしか残されていなかったり、直接狙えるポケットが無かったり、的球を匠にコントロールする技は、佐倉相手には十分通用していた。
「まさか、もうセーフティまで教えたんですか?」
葵の兄、正人は六道のそう訊ねた。
「いや、あれは彼女が勝手にやってるんだろう。オレの基準でも、今はまず入れることだけを教えているし、たとえ教えたとしても生半可なことはしないつもりだがね…」
「そうですか…、葵が勝手に…」
「まあ、それでもあれくらいの相手には十分効果はあるだろうがな」
ビリヤードをある程度やりこんで行っても、どれが正解と判断しにくい配置がどうしても存在する。上級者であればそれでも攻める方法に長けていたり、あるいはセーフティを選択して、自分に有利な選択、さらに言うなればその後の相手のショットの選択すら読み切って、ミスを誘発しようとする。ただ単に”入れ合い”の勝負よりも、こうした駆け引きによる力の差が結果に現れることも多々ある。
葵がどのようにしてセーフティを覚えたのか、プロの試合のビデオを見て独自に研究したものかも知れないし、その場の思いつきでやっているのかも知れない。いずれにせよ、彼女なりの”勝利の方程式”が存在し、それを実践しているということになるだろうか。
佐倉は、回ってきた球のほとんどが狙いにくいもの、どうしていいかわからないものという状況下にあって、それでも闘いを投げてはいなかった。しかしながら、経験と知識の足りなさが彼女を苦しめる。どうしても場当たり的な攻めに頼らざるを得ず、結果的に成功することはあっても、それは偶然性が高く、次の球へと繋げていくことを困難にさせる。
こうしたことは初めての経験ではない。彼女がこれまでに試合で経験してきてなお、弱点と感じていたことでもある。こうした彼女の弱い面を、葵は遠慮無く執拗に攻めてくるのだ。
辺りには重苦しい空気が漂い始めてきた。1セット、また1セットと葵がセットを返し、ついに3対3の同点にまで追いついた。
「ありゃ、ついに同点かよ。佐倉さん、頑張っておくれよ!」
「3-1になってからの彼女の集中力は凄いわね。ショットも正確だし、いつの間にここまでの力を付けたのかしら?」
「考えてみりゃ、あの3-1のナインボールを沈めてからここまで、ミスと言えるショットは1つもしてないんや…。佐倉さん、いよいよ危ないで」
ギャラリーたちも気がつけば拍手をすることはめっきりと減り、皆が腕組みをして黙り込んでいた。
隠れた球でも佐倉は必死になってセーフを取ろうとしていた。佐倉から見ても、以前の葵との対戦のことはまるっきり忘れて別人と相対しているように感じていた。それぐらい手強くなっていたのである。
「残念だけど、こりゃ負けるね…」大家が言った。
マスターはコーヒーを煎れながらもの悲しい顔をしていた。
「まさか三味線弾いてたとはな…」
「これもいい経験と思ってくれりゃええけどなあ…」
重鎮たちにとってもこのゲームの展開はショックだった。
苦しむ佐倉をよそに、葵は完全なマイペースで淡々とボールをポケットに沈めていく。それは前半で全くポケットしなかったのとあまりに対照的だった。完璧にナインボールの前にポジションした手球を、これまでと変わらないリズムで狙って沈める。スコアは3対4となり、逆転するとともに葵のリーチとなった。
葵の表情はこれまでと全くと言っていいほど変わらなかった。多くのギャラリーが、可愛げがないと感じただろう。冷静沈着、この言葉が一番、今の彼女に当てはまりそうだ。
「妹のいつものやり方さ」
「…というと?」六道は正人に尋ねた。
「テニスでのことだけどね、相手を本当に打ち負かしたいときによく使う手なんだ」
「………」
ラックを組み終わった葵はゆっくりとブレイクの位置に歩んだ。これまでよりさらに落ち着きを増した様は、オーラを身に纏っているようにさえ見える。
葵はここまでブレイクの強さやスピンを調整していた。自宅のテーブルでやっていたことをここでも試していたのだ。
大方のコンディションは彼女の手中にあった。
ゆっくりとしたモーションから繰り出されたキューは、手球のほんの少し左下を正確にヒットし、勢いよくボールを散らして手球と1番ボールの位置を完璧にコントロールした。2つのボールがポケットインし、取り出しも良い。
「それに、妹は同じ学校の中でもずば抜けて動体視力がいいんです」
「なるほど…、それでブレイクの飲み込みが早かったのか…」
葵は1番ボールを難なくポケットし、次のボールへのポジションも問題ない位置に運ぶ。
佐倉はウェイティングシートに座りながら両手の指を互いに組み、祈るようにしていた。
(もしも…、もしも、もう一度チャンスが来たら…、そのときはどんな球でも全力で入れよう…)
葵は落ち着いていた。こうした舞台に慣れているようなパフォーマンスを繰り広げる。
ギャラリーの視線が自分に集中することについても、彼女にはプレッシャーというよりむしろ満足感を与えていた。
一球、また一球、練習で身につけたショットの一つ一つが活かされていた。恐ろしいまでの集中力、安定したショット。ポケットのど真ん中を捉えて次々とその深奥に吸い込まれていく。ギャラリーの誰もが彼女のミスを想像できないぐらいになっていた。
そしてナインボール、ゲームボールを迎える。難球ではないが少しいやらしいフリを残したナインボール。
しかし、彼女のリズムはこれまでと全く変わらなかった。同じように狙い、一定のリズムでスパン!と放たれた手球はナインボールに正確にヒットし、コーナーポケットのど真ん中へと沈めた。
「ゲームセット!」
石黒が叫んだ。最後は圧巻のブレイクランナウトでの締めくくり。ギャラリーからはため息が漏れ、挑戦者は軽く一礼をすると、さっさとキューを畳んでその場を後にした。
重苦しい空気の堀川ビリヤードからは笑顔が消え、敗北の虚しさだけが残っていた。
佐倉はウェイティングシートに腰掛けたまま、しばらくは立ち上がる気力を失っていた。あの、ナインボールを悔やむ気持ちと、それ以上にかけ離れてしまった実力差が重くのしかかる。
「なんや?撞いていけへんの?」
「うん、ちょっと、今日はええわ。また今度な…」
大勢居たギャラリーも、意気消沈してその場を去って行った。
残されたのは大家、石黒、お嬢、牛島、そして重鎮らと佐倉だった。
「お疲れさん!残念やったね…」
誰かがこう言葉をかけたが、その返事はなかった。
Race to Elevenの過去の記事は こちら をご覧ください。
- 2013年6月18日(火) 07:00 by 芦木 均