第六章 偽りのマスク
第102話 1ドル紙幣とガールズトーク
ある日の堀川ビリヤード、佐倉とマスターの奥さんが店番をしていた。奥さんは夜食の仕込みに忙しく、マスターはふらっとどこかに出て行ったきり戻らない。ところで佐倉はというと、先日の来客、大河に言われた一言がひっかかり、せめて自分でタップの取り付けぐらいはできないと…と店のキューを取り出しては安物のタップを交換する練習をしていた。
「あーん、うまくいかないわね」困り顔の佐倉に
「それでもマスターよりは上手かもよ?」と奥さんが慰める。
まだ明るいうちだというのに、今日はお嬢こと磯部真紀がやってきた。
「おはよー! あら? 今日は女性だけ? 珍しいわね」
「男なんていない方が作業が捗るってもんよ!」
「…」
「南は、何? タップ付けてるの?」
「うん、練習しようと思って」
「へぇ~、感心ね。あたしのも付けてよ!」
「もっと上達したら、ね。まだ怖いから…」
「あたしも同感」
「真紀さん、ひどいなぁ~」
「そりゃね、その絆創膏だらけの指を見たら誰だって…ねぇ」
「はいはい」
夕方の堀川ビリヤードは、こうして女性たちの笑い声と温かい雰囲気に包まれていた。
いつもならすぐに球を転がす真紀だったが、残り二人が一所懸命に何かをしているのを見て、カウンターに居座ったまま二人を眺めて過ごしていた。
作業中は一言もしゃべらない佐倉だったが、ふとあることを思い出して口を開いた。
「ねぇねぇ、真紀さん」
「はい? 南さん」
「つかぬことを伺いますが、今、好きな人っていらっしゃるのかしら?」
「いきなり、唐突だわね…」
お嬢はあまり表情に出さない方だが、ちょっとだけ困った顔をした。
「それって、誰かから聞くように頼まれたの? ね、誰、誰?」
「いや、あはは。 ちょっとね、疑問だったのよ。 いつも綺麗だし、その割に男っ気がないっていうか…」
「あら、そう? 綺麗?」
「うんうん。 それで、どうなの?」
真紀は何も隠そうとせず、少し遠くを見ているような目つきで話し始めた。
「そうね、ずっと片思いの相手はいるわ…」
「へぇ~。 どんな人?」
「背は高くないけど、でも、もの凄く強い人」
「ビリヤードが?」
「うん。 ビリヤードも…、だけど。 メンタルも凄く強くてあたしなんかが近づけないぐらい、ずっと先を歩いている人。 それであたしはその人の後をずっと追いかけてる感じで…」
うっとりとした眼差しで語りかけるお嬢のことを、佐倉は心から羨ましく思った。
「その彼の写真とか無いの?」
「うーん、あれば良かったんだけど…。二人とも写真撮ったりしない人だから」
「他に特徴は? 背が高くない以外で」
「そうねぇ、彼はちょっとカッコ付けるのが好きで、デートで入ったお店が気に入ったら、コースターの下にそっとアメリカの紙幣を置いていくのよ。キザでしょ?」
二人はケタケタと笑った。
「そういえば先日のお客さんだけど…」
佐倉は思い出したようにパスケースを取り出し、その中から1枚の紙幣を取り出した。
「帰り際に『お守り代わりに取っとけ』って、これを…」
「え? ここに? 彼が来たの?」
そう言いながら、お嬢も大きな革財布を取り出し、その中からきれいに折りたたんだ1ドル紙幣を取り出して広げて見せた。
カウンターテーブルの上に広げられた2枚の1ドル紙幣。二人は顔を見合わせて驚いた。
「う、うん。 その人かどうかはわからないけど、オオカワっていう人だったわ、確か」
「彼よ、きっと。 間違いないわ」
「お嬢の『憧れの君』って、大河君のことだったの?」
驚いて割って入ったのは奥さんだった。
「う、うん。 近くに来たのならせめて連絡ぐらい寄越してくれればいいのに…」
そう言いながらお嬢は両の拳をまぶたに押しつけるように伏せった。
佐倉はお嬢の細い肩を軽く撫でるようにした。何となく、そうした方がいいように思ったからだ。
お嬢は佐倉の手を払い、顔を上げた。
「ありがと。 もう慣れっこだから全然平気! いつもこんな感じであたしの方を振り向いてくれないんだ」
お嬢がこんなに”女の子らしい”ところを見たのは、佐倉にとって初めてのことで驚いた。
堀川の連中の誰もがお嬢のことを強いと思っている。しかし、その原動力は、遙か遠くを歩いている大河という存在に向かっているからこそなのだろう。一直線に向かっているからこそ迷わない。迷わないから強く見える。そんな彼女の、普通の女の子の部分を、佐倉は垣間見たように感じた。
「いいなぁ、そんな人がいて。あたしもカレシ、ちょっと欲しいかも?」
「南ちゃんがそんなことを言うなんて珍しいわね~。 ウッシーなんかどう?」
「うーん、ウッシーはちょっと頼りない感じかなぁ」
「あたしもそう思う」
3人のガールズトークはこうして笑顔のうちに終わっていった。
ドアが開いて勢いよく牛島が入ってきた。
「みんな、おはよう! なになに? 何か話ししてたの?」
「ううん、何でもない!」
そう言って3人の女性はクスクスと笑う。
「なんだよぉ、教えてくれよぉ」
「いいからいいから、さ、撞きましょう!」
こうしていつもの堀川ビリヤードらしい夜を迎えていった。
Race to Elevenの過去の記事は こちら をご覧ください。
- 2014年4月 1日(火) 07:00 by 芦木 均