第六章 偽りのマスク
第96話 ただ者ではない客
「さて、どうしたものやら…」
佐倉は牛島が取り付けていったタップを眺めながらボーッと考えていた。
「まさか、うっしーがお嬢を、ねぇ~。やっぱり…って感じだけど。どうしたものかな~?」
佐倉は悩んでいるようでそうではなかった。ガールズトークよろしく、お嬢にはそれとなく話題を振れば答えてくれるだろう。それよりも目の前のタップが問題だ。
牛革を押し固めてできた薄い円柱形の物体は、同じく円筒形の先角、キューの先端部分にはみ出て取り付いている。使えるようにするには何らかの方法ではみ出た部分を削り取り、適切なR(アール)が付くように、こちらも削り取っていく必要がある。そんな作業はこれまで見てこなかったし、一人でできるはずもない。
マスターはというと今日は町内会の用事で深夜まで帰ってこないという。マスターの奥さんにも期待は出来ないだろう。こんなことならそのままのタップでも良かったのに…と、佐倉は今更ながら後悔した。
(誰かタップの整形ができる常連さんが来ないかな…)
そんなことを思っていた矢先の出来事だった。見たこともない一見客が、年季の入った立派なキューケースを背負って来店した。
男は少々雑にケースを床に降ろすと、佐倉に言った。
「流行ってない店だな。この台を借りるぞ」
「はい、どうぞ」
男は無愛想だった。手早くキューを組むと、テーブルの上に一列に並べられたボールをキュー先で蹴散らし、瞬く間に全ての球をポケットに吸い込ませた。
カツーン!カン!スコーン!小気味よいテンポで気持ちいいぐらいに球をポケットに沈めていく。それも番号順に。
いつ考えているのかわからないぐらいの素早さで、そして手球を生き物のように自在に操りポジションをしていく。それをもの凄いスピードで何ラックもこなしてしまう。
一見客のはずなのに、まるでマイ・テーブルのように手なずけているように見える。
佐倉はその一つ一つのショットに見とれてしまっていた。
この男、並大抵のレベルではない。少なくともプロ、それもトップクラスの実力者だろう。まるで息をするように球を撞く。入って当たり前、ポジションができて当然、ポケットに吸い寄せられるように入っていくボールの軌道は滑らかで狂いがない。
(どうしてこの人のときは、的球がこんなに素直にポケットに入っていくのだろう?)
佐倉は内心、そう感じた。いつもの自分たちのビリヤードとは全くの異次元の世界。ボールを、テーブルを、コンディションを完全に従えているような印象。自分の飼い犬が他人に妙になついてしまったときのような、そんなことを佐倉は感じていた。
佐倉が見とれていると、男の方から話しかけてきた。
「どうだ、ちょっと相手してみないか? ビリヤードはできるんだろう?」
佐倉はこの男の”ビリヤードができる”という言葉の意味合いを考えてしまった。
「そんなにうまくできないですけど…。それに、今はタップがまだ使えない状態で…」
佐倉はその証拠にキューを差し出してみた。
「ちょっと貸してみろ。道具はあるか?」
そう問われて、佐倉はキューと、ありったけの道具を用意して見せた。
男はその中から革裁ちナイフと金やすりを取り出すと、器用にタップの側面を削り取り、やすりを巧みに使ってあっという間に整形してしまった。
「店員ならいつでもこれぐらいのことは出来るようにしておけ」
「あ、はい、すみません」
「それに、このテーブルには違うボールが紛れ込んでいる。おかしいとは思わないのか?」
「えっ?」
佐倉は全く気付かなかった。しかし、男が言うにはボールの数字の部分が少し違うという。その上、重さまで他とは異なっているらしい。
佐倉は平謝りに謝り、急いでボール入れ替えた。
男は彼女の謝罪など全く気にもとめない様子だった。
セット数を付けるのでもなく、ブレイク権を譲られた佐倉は、その後、二度とブレイクをすることがなかった。
築かれたのはマスワリの山。チャンスと言えるかどうかわからないような球が回ってくるが、佐倉はそれをチャンスにすることは出来なかった。あまりにもレベルが違いすぎ、佐倉が悔しがるところまで行き着かなかったが、それにしても彼女には強烈なインパクトを確実に植え付けていた。
この小柄な男性は淡々と撞いていたが、佐倉には身に纏ったオーラがハッキリと見えるようだった。
ある程度撞き込むと、男はキューを片付けだした。
「店員がこんな調子では、たいした常連もいないだろうな…」
男は捨て台詞のように言った。
佐倉は、自分のことはさておき、常連客のことまで悪く言われるのは我慢ならなかった。
「待ってください。確かにあたしは下手だけど、他の常連さんにも上手い人はいますから。そりゃあなたには及ばないかも知れないけど…」
佐倉は悔しがった。男に言われっぱなしなのもそうだが、太刀打ちできない自分の実力にも。
「気にするな。そうは言ったものの、この日本じゃオレに勝てる奴なんか、そうはいないなんてことは、オレ自信もよーくわかってるからな」
なんてムカつく奴なんだろう。確かにビリヤードは強くて巧いに違いないが、そこまで言われることはない。
「もう少しだけ撞いてもらえませんか? 太刀打ちできないのはわかってるけど、このまま引き下がるのも嫌だから…」
気がつけば彼女はこんなことを口にしていた。自分でも無茶だと思うし、言った瞬間に後悔したのだが…。しかし、男の口からは意外な言葉が返ってきた。
「いいぜ、退屈していたところさ。あんた、ちょっと見直したよ。こういうガッツのある奴を探してたのさ。なんせ、暇だからな」
「あ、はい。お願いします」
佐倉は下げたくもない頭を下げてお願いした。それがマナー、というものだろうか。
「その前にちょっとばかし、やっておかないとな…」
男は佐倉からキューを奪い、手球を転がしながら何度も撞いて”撞き締め”を行った。テーブル上を手球がめまぐるしく動き回り、それを何度も何度も連続して撞く。他にも男はいろいろなことを彼女に伝えた。
無愛想で嫌な奴だが丁寧で親切なんだと佐倉は悟った。
最後に先角からはみ出したタップを軽く削り、キューを佐倉に返した。
「いつでもいいぜ。まぁ、負けた方が場代を払うってのでどうだ?」
「いいわ、受けて立つわ!」
こうしてあまりにも実力差のある二人の闘いが始まった。
Race to Elevenの過去の記事は こちら をご覧ください。
- 2013年11月 5日(火) 07:00 by 芦木 均