第六章 偽りのマスク
第100話 ダーティ・ショット
一筋の紫煙が夜空に飲み込まれていった。いつもはマスクの下に不敵な笑みを漏らしていた男が追い詰められていた。
「こんなモンに逃げてちゃいかんよのォ…」
そう言って店主はタバコの吸い殻をアスファルトに押しつけ、吸い込んだ息を大きく吐いた。
そうしているうちに気持ちの区切りがついたのか、店主は重い腰をゆっくりと持ち上げて、店の中へと入っていく。
ドアの向こうの大河は振り向きもせず、落ち着いた表情をしていた。
「何か飲むか?」
「いや、後でいい」
二人の対戦は、第5ゲームの途中から再開した。大河が続けてブレークする。
そしてプレイキューに持ち帰るとこう言った。
「もうこのテーブルはオレのもんだ」
「な、なに?」
「オレはもう、テーブルの隅々までコンディションを掴みきったのさ」
「………」
そう宣言してからの大河のプレイは凄まじかった。先ほどよりも1段階ギヤを上げたようなテンポで次々と的球をポケットしてゆく。そして攻める、また攻める!
ポケットの幅いっぱいを使い切って手球を自由に操っていく。ボールはラシャの上を滑らかに滑空してポケットの中に吸い込まれていく。
またブレイク、そしてランアウト!
何と、彼は宣言通りに完璧なプレイで残りのセットをマスワリで埋め尽くした。
ゲームカウントを4対1のリーチとして迎えた第6ゲーム。
店主は目を前の光景を疑った。大河はわざと強めのバンキングをし、ブレイク権を店主に譲ったのだ。
(オレに完璧なプレイを要求してるって訳か…、フン)
大河の挑発的なバンキングは店主を奮い立たせた。
これまで以上の集中力を発揮し、ブレイクからショットまで、丁寧な丁寧なプレイを繰り広げる。
ランナウト! 店主は大きく息を吐き、新しいおしぼりを取ってきてはシャフトを拭って滑りを回復させる。
店主の表情は険しく、鬼気迫るものだった。
対照的に、静かに椅子に腰掛けて見守る大河。
背水の陣、一つのミスが命取りになる大きなプレッシャーを背負い、店主の額から吹き出した汗が頬を伝い、しずくとなってレールの上に、ラシャの上に落ちていく。
「フウッ」
大きく息を吐き、肩を揺らし、渾身の力を込めて強いブレイクをする。ショットを重ねるごとに有利になっていくどころか、プレッシャーの方が店主を押しつぶそうとする。
そのプレッシャーを真正面から受けて立ち向かう。普段は90%の成功率のショットでも、プロはここぞというところで100%にまで高められる。それを続けることの精神力が、ボディブロウのように店主の体力を奪っていく。
ゲームが進むにつれ、店主はハァハァと断続的な呼吸をするようになってきた。まるで長距離を走っているランナーだ。
額の汗とキューの湿気をおしぼりで拭い、キュー先には丹念にチョークを塗って、ミスの確率を極限にまで下げていく。
そうした造作は、店主の調子がいいときのものだったはずが、なぜにこんなに苦しいのか。
気がつけば、極限の集中力の中で5連続のマスワリを達成していた。
張り詰めていた緊張の糸は、決して千切れることも緩むことも許されない。
店主はたまらずキッチンの方に走り、グラスに水道水を入れて喉に流し込んだ。
緊張と疲労に脇目も振らず、テーブルに向かう店主。ゲームが開始してから今までで5kgぐらいは体重が減ったのではないかという気さえする。
最終ラックのブレイク! ここまでと同様、このブレイクも完璧だった。
ゴホゴホと咳き込みながら、店主はキューを構えて手球に向かう。
手が震え、足がガクガクする。まるでファイナルを撞いているかのような緊張感の高まりが彼を襲う。
目の中に入り込んだ汗の粒が目に染みる。店主は、球を撞いている実感を徐々に失い、気力だけで撞いているように見えた。
手球が的球に向かうシュートラインや、テーブルの縁を構成するレールでさえも歪んで見える中、彼は必死になってボールを狙った。
手球が進むべきかすかなラインに目がけて彼はショットを繰り返す。そして9番ボールから10番ボールへのポジションを綺麗に決め、10番ボールをポケットしたところで彼は跪いた。
「オエエッ…」
店主は口を押さえて跪いたまま、右手を広げて頭上に高く差し出した。
その一部始終を見ていた大河は、コクリと頷いて、静かにキューを片付けた。
Race to Elevenの過去の記事は こちら をご覧ください。
- 2014年3月18日(火) 07:01 by 芦木 均