「いらっしゃい。今日はご機嫌がよろしいようですな、旦那」
「ああ、そうだ。オレは今、機嫌がいいんだ」
六道は市内のビリヤード用品店を訪れていた。ちょっと食わせ者な感じの店主がいつものように店の奥に腰掛けてなにやら作業をしながらこちらに話しかけている。
「オレの生徒の出来が良すぎてな、困っているぐらいだ」
店主は座ったまま見上げるようにして六道の方をじっと見た。
「それはそれは…、非常にいいことですな」
店主は口元と目尻でしわしわの笑顔を作った。
六道は誰かに話したかったのだ。類い希に見るような逸材、ダイヤモンドの原石の方から声がかかり、ビッグチャンスが転がってきた。その天性のセンスといい、努力の方向性といい申し分ない。ダイヤモンドを美しい宝飾品に変えるも、ただの石ころにしてしまうも己次第だ。彼はそのことに興奮しきっていた。
狭い店内の隅から隅までせわしなく歩きながら、慎重に言葉を選びながら自慢げにその娘の凄まじさを語る。ついつい熱が入ってしまう自身を抑えながらもその興奮は収まらない。
「ところであんた、元プロじゃないかね? 間違っていたらすまないがね…」
六道は店主に背中を向けたまま歩を止め、しばし沈黙した。
「あ、ああ。その六道で間違いない」
「やはり、な。まあ、この世界は広いようで狭いですからな…。それも上に行けば行くほどに」
「まったくその通りでいやになるが、それも事実だ。否定はしない」
今度は店主の方が静かになった。
さっきまで熱く語っていた六道は、今度は静かに語りかけるように話し始めた。
「そうさ、オレはプロ入りするとともに期待されたが、大きな大会になると緊張で手が震え、世間からは『チキン』とさんざ罵られた男さ…。世間で言われるように、注目されればされるほど体が硬直してキューが出なくなる。みんなそうだが、そうした自分と向き合って克服する。オレはそのことに挫折し、とうとうキューを置いちまった」
「で、しばらくは噂になってましたな。もう10年は昔のことでしたかな…」
「ああ。そうだ、間違いはない」
六道は黙って唇を噛みしめたが、すぐに元の彼を取り戻す。
「しかし、アイツは違うんだ。今のオレは過去のオレなんてまったくどうでもいい。アイツはオレがやろうとして、どうしてもやれなかったことをやれるんだ。これだけは間違いない」
「ふん、ワシみたいな老いぼれでも気になっちまうじゃないか。そのダイヤの原石とやらが」
「ああ、期待してくれ。必ず日本中が注目する女子プレイヤーに育ててみせる。いやそれ以上に、だ」
六道はハッキリとは口にしなかったが、『世界』という言葉が喉元まで来ていて、彼はそれをぐっと飲み込んだ。まだそれを言うべきときではない、と。
いくつかのメンテナンス用品など、細々とした物を買い、話すことに満足した彼は店を後にした。
彼は孤独だった。プロを辞めたことにより、それまでの繋がりを失い、住む土地を変えながら転々としていた。長い間キューを握ることはなく、ビリヤードと関わることさえも避けていた。どこにいてもひとたびキューを構えれば注目され、周囲に知れるところとなる。しかし、キューを握らなければただの中年男として過ごすことも可能だった。
そんな10年間を過ごし、ほんの遊び気分でネットカフェのビリヤードコーナーで転がしていたところを、葵の兄に声かけられたのである。
「あれ? ひょっとして六道プロじゃないですか? 今日は右手撞きの練習か何かですか?」
「あ、ああ。いや、もうプロはやってないんだ。それに、オレがレフティなのをよく覚えていたな」
「実はあなたのファンだったんですよ。成績こそ奮わなかったけど、あなたの技術の高さは誰もが認めるものでしたから」
京都の市街地を歩きながら、彼はそのときのことを思いだし、目頭に指をあてる。元プロとして、現役時代の自分のことをハッキリと覚えられていることほど嬉しいものはない。そして妹のコーチになってくれと言う。ちょうど新しい仕事を探していた彼にとって、これほどありがたい話はなく、断る理由がなかった。もちろんその兄が自分の良き理解者であることも大きい。こうして彼はコーチとしてのリスタートを切ることができたのである。
これほどのチャンスが世の中にあるだろうか? 否、彼は今できることのすべてを、彼のすべての情熱でもって葵にぶつけようとしているのである。
- 2013年4月30日(火) 07:00 by 芦木 均