タクシーを降りて男は大きな構えの玄関の呼び鈴を鳴らすと、表のゲートが開かれて中へと通してくれた。
真っ直ぐ葵の練習場に着くと、彼女と瀬名が部屋にいた。
瀬名は六道のことを心底嫌っていたので目を合わせようとはしなかったが、葵は真っ直ぐに六道の方を見ていた。
「そんな格好でビリヤードもないだろう。ビリヤードは正真正銘のスポーツだ。まずこれに着替えてくれ」
六道はジャージが入ったデパートの紙袋をビリヤードテーブルの上に放り投げた。
葵はぴくりとも動かず、六道の目を見ていた。
「それと、一つだけ言っておく。お前がオレをどう思おうと構わないが、ここではオレが先生でお前は生徒だ」
葵がようやく口を開いた。
「ええ、いいわ。先生」
葵は紙袋を手に取ると、別室に着替えに行った。
瀬名は腕を組んだままじっと葵が座っていた場所を見つめていた。瀬名には、葵が六道を師として認めたというより、むしろ「先生」と名乗ることを許したのだと感じた。
ジャージ姿になると葵は普通の女子高生のように見える。いろんな意味で、六道にとってはこの方がやりやすかったのだろう。
「オレのレッスンは週一回、30分だけだ。そのうち半分はこれまでのことが出来ているかどうか見てやる。残りは新しいことを覚えるために使う。無駄なことは一切教えるつもりはない。それが嫌なら他の奴に頼むんだな」
「いいわ、それでいきましょう」
そして葵の一番の弱点であるブレイクのレッスンが始まる。
六道はまずナインボールのラックを組み、手球をレールから少しだけ離れたポイントに置くと、葵に構えるように命じた。
葵は新しいブレイクキューであるBAZOOKA(バズーカ)を手に取ると、これまでと違った違和感を覚えた。
六道は何回かのブレイクを観察すると、同じく持参していたジュラルミンケースの中からいくつかのボルトを取り出すと、キューの後ろをこじ開けてウェイトボルトを交換する。
さすがの葵も不思議そうにその様子を眺めていたが、何かの調整をしているのだろうということは見ていて察したのだった。
「これで試してみろ」
言われるままにブレイクをする葵。何度かボルトを交換していくうちに、その振りやすさが劇的に変化していくのが見て取れた。
「よし、これで行こう」
六道コーチはビリヤードテーブルのラシャに、色鉛筆でいくつかの印を付けて行く。一つは手球を置く位置を左右に一つずつ、そして1番ボールを狙うための目標のライン。
「いいか、ここからあのラインに向けてしっかり狙え。そしてあとはタイミング良く振るだけでいい」
葵が実際にブレイクしてみると、軽くキューを振っただけなのに、ドカン!という大きな音がして的球がきれいに散っていく。葵にとって革命的なできごとだ。そして、佐倉に勝つための、一つの確信めいたものを得たように思う。
「これを1日に少なくとも100回、やるんだ。できているかどうか、また来週に来るからな…」
「はい、先生」
葵はそのまま練習を続け、六道はジャケットを羽織るとさっさと部屋を退出していった。
「瀬名、コーチを送って差し上げて」
「は、はい…」
瀬名は気が進まなかったが、お嬢様の言いつけとあれば仕方ない。急いで後を追いかけると六道を後部座席に乗せ、自宅の方まで送ることにした。
- 2013年2月 3日(日) 16:40 by 芦木 均