五章 ブレイクランアウト 第89話 メッセンジャー
日を追うごとに進化し続ける葵。この、大粒のダイヤモンドの原石は、コーチである六道にもプレッシャーを与え続けていた。それゆえ、週に一度のレッスンの時間は、コーチが生徒に教えるものとはちょっと異質な、二人がおのおのをぶつけ合うような緊張感に包まれていた。
「ふう…。今日はこれで終わりにしよう。これまですこぶる順調だ。この調子でやってくれ」
六道は自分の立ち位置を確保するのに必死だった。そうしなければ師弟の立場が逆転し、葵に飲まれてしまいそうだった。
「ちょっと待ってくださる?」
そんな六道の気持ちをよそに、葵は常にマイペースで相手を巻き込んでしまう。葵は部屋の隅の机の引出から、えんじ色のふくさを取り出して六道に手渡した。
「これをあの娘に」
六道は無言でふくさを受け取り、中から一通の封書を取り出した。
「なんだこりゃ? は、果たし状!?」
あまりにも達筆すぎる毛筆で書かれた『果たし状』の文字は、淡いピンク色に押し花を施した愛らしい封筒に大きく、伸びやかに書かれていた。
六道はたまらずに中の手紙を取り出して、大きく見開いた両の目を激しく動かしながら文面を読んでいた。
「来る六月…午後一九時00分に? なになに? 堀川ビリヤードにおいて…? お、お前、敵地に乗り込んでいくのか?」
「ええ、そうよ、何か不都合でもございまして?」
「いや、ビリヤードってもんはコンディションとか、お前はまだよくわからんかも知れんが、いろいろとあるもんなんだ。慣れたコンディションの方が有利なのはどのスポーツにおいても言えることだ。ここに呼びつける方が有利な展開に運べるのはわかるだろう」
二人をじっと見ていた運転手の瀬名は、無言のまま首を横に振った。
「それは私があの娘より劣るということ?」
「い、いや、そういうことではない」
「あなたのコーチが不十分ということかしら?」
「いや、それもない」
六道は黙り込むしかなかった。
「あの娘が有利な状況で勝った方が、あの娘へのインパクトがより大きくなるのではなくて?」
「そ、それはそうだが…」
六道はしばし沈黙したまま考えた。確かに葵の言うことは正論だ。だが相手の力量もまた未知数だ。今の葵の桁外れな”伸び様”に異論はないが、いろんな側面から考えて”不十分”、言い換えれば”発展途上”なことは間違いない。ならば、この手紙を届けるときにでも敵前視察をしてみるべきだろう。
彼は手紙を丁寧に折りたたみ、元のようにふくさに仕舞い込んだ。
「わかった。とにかくコイツはオレが確実に奴さんに届けてくる。心配するな」
葵は無言だったが、『誰も心配なんてしていないわ』と言いたげな目で六道を見守った。
六道が部屋を出ようとすると瀬名は彼に従おうとしたが、六道はそれを制した。恐らく瀬名も本気で同行するつもりはなかったのだろう。
酒井家を後にした六道は、車の助手席に手紙の入ったふくさを載せて、真っ直ぐに堀川ビリヤードへと向かった。
ものの30分も運転すると、六道の運転する車は堀川ビリヤード近くまで到着し、彼は近くのコインパークに車を停車させ、手紙を上着の胸ポケットに仕舞い込んだ。そこからは店の前まで歩いて近づいた。
六道は堀川ビリヤードの郵便受けに中身だけを放り込もうと考えたが、ドアの内側、カウンター越しのマスターと目が合ってしまい、やむなく店の中へと入ることにした。
「いらっしゃい。お一人ですかな?」
「あ、ああ。ちょっとだけ、な。一時間ほどで帰るつもりだ」
店の華台のすぐ横のテーブルに通され、マスターが番茶とお菓子をお盆に載せて六道に近づいた。
「キューはあそこから…そこまでのだったら自由にどうぞ」
そう言い残してカウンターへと戻る。
六道はハウスキューのうちの一本を無造作に選んでカフェテーブルに立てかけると、そのまま椅子に腰を下ろして店内を見渡した。
ふん、一見、初心者にやさしそうな店を気取ってるが、あの華台はどうだ? ポケットを絞っているしラシャも重そうだ。おまけにここだけ照明を変えている。明らかにプレイヤーを鍛えるための環境が整っている。
そして店の奥へと視線を移すと、そこには佐倉がいた。一番奥のテーブルで、老人3人とジャパンをやっている。ジャパンとは、主に関西地方特有のナインボール・ゲームの一種で、9番以外の奇数ボールも点数に数える点取りゲームだ。
ちょうど佐倉が球を撞いているところだったので、それを注視しようと向こうを向いているときに、彼はハッと気付いた。
なんと、まさかな…。京都でも有名な、いや有力だった往年の名プレイヤーが3人もこぞって、あの小娘と一緒にビリヤードをしている。プロとしての現役時代に名声を得た者もいれば、アマチュアとして確固とした一時代を築いたプレイヤーもいる。もう一人はトーナメントにこそ出てこなかったが、多くのプロを輩出した著名人だ。なんという連中を相手にしているんだ!
彼らはポケットビリヤードを引退してスリークッションや四つ球といった、キャロムビリヤードに興じていると聞いたことがある。オレでさえ、彼らがポケットを撞いているのを生で観るのは初めてのことだ。
六道が京都の”生ける伝説”に目を奪われていると、そのうちの一人と目が合った。未だ鋭さを失わない眼光は彼の目を射止めた。
「やあ、六道くんやないか。アンタもちょっと、こっち、来なさい」
「あ、はあ…」
さすがの六道も重鎮たちの誘いを無碍にはできなかった。
「一緒に撞かんかね?」
「いえ、私はもう、ちょっと」
「南ちゃん以外はみんな、とうに引退しとる。みんな、もう、ちょっとですわ」
そう言うと皆がガハハと笑い出す。
「まさか、こんな私の名を覚えて頂いていたとは…」
「みんな、この世界の、ビリヤードに取り憑かれた仲間やからね。決して忘れやせんよ」
「恐縮です」
六道は内心ですごく救われた気がした。プロを辞めたことで何か咎められるような気がして、近づくことを躊躇っていたのが嘘のようだ。
「あの子な、ライバルの女の子にハウスでどうしても勝てないってね、本当は泣きたいぐらい悔しい筈なんやけど、なんも言わんと延々とそこで練習しててな…」
「ハァ…」
「何を練習してええんかわからんし、とにかく球を撞いてたらうまくなるやろうって、真っ直ぐやと思えへんか?」
「はい、確かに…」
「それを…、あ、ワシの撞き番? ちょっと待っててや」
老人は立ち上がってキューを構えた。老人だからと言っても衰えを感じさせないキュー裁きは健在だった。佐倉の方に目を移すと、瞬きすることすら惜しむように食い入って彼のショットを観察している。
いつ狙っているのかわからないぐらいの早撞きで、あっという間に取り切ってしまう。
「ちょっとゴメンな。もうちょっと待っててや!」
そう言ってしばらくの間、話しは途切れてしまったが、スコアボードに目をやると、佐倉はマイナスになっているものの、そこそこ健闘している様子がうかがえる。ハンデボールもたっぷりと振ってもらっているには違いないのだが…。
「待たせたね。ゴメンやで」
「いえ、お構いなく」
「それでやね、どこまで話したモンかな? 南ちゃんを見かけたのがワシで、少しずつ手ほどきを始めたんやけどね。コイツらが面白そうや…言うて増えてきてな。みんなで見守ってるという訳や」
しばらくしてまた佐倉の撞き番が回ってきた。六道はじっくりとその様子を観察した。
彼女のプレイは葵とは対照的だ。どちらかと言えば極端に実践的で、フォームやストロークはきれいだが、精度という点においては葵が上だろう。しかし、ビリヤードの場合、いろんな状況が起きうる。ジャパンのような”攻めのゲーム”をやっている限りはどうしても無駄に攻めてしまうこともあるだろう。一方でややこしい状況に遭遇した場合、実戦主体の佐倉のビリヤードに分があることもあるだろうか…。
それにしてもなんということだろう。こうして対照的な二人の女子プレイヤー、今後どちらかが、あるいはどちらともが大化けする可能性もある。その二人の2回目の対戦を見届けることができるのも、何かの幸運の一つかも知れない。
「六道君、ちょっと代わりに撞いてみんかね?」
六道はボーッと考え事をしていたので、不意の誘いに戸惑った。
「いや、私はちょっと…」
「いいから、撞いてみなさい。これからのためにも」
「そこまでおっしゃるなら…、少しだけですよ」
老人の一人からキューを受け取った六道は、テーブル上の手球に向かって構えた瞬間、凍り付いた。
「こ、これは、この配置は…」
老人たちは静かに見守った。
Race to Elevenの過去の記事は こちら をご覧ください。
- 2013年5月19日(日) 06:07 by 芦木 均